「命をかけてくださった方」  02.03.10  
          旧約聖書エレミヤ30:18〜22,新約聖書ローマ5:6〜9

 イスラエルは、何度も神に背く罪を犯し、神から懲らしめの罰を受け、
そこで苦しみを味わいます。
 しかし、神は見捨てることなく、赦し、救い出してくださいました。
正しい懲らしめと罰は与えるが、滅ぼし尽くされることのない神でした。
罪ゆえの大きな痛みや傷、苦しみを味わったあとには、赦しと救いを用意して
くださる神でした。
 その神さまの救い方が大きく転換することを、預言者エレミヤは預言します。
新しい救いの道筋ができるというのです。それは、罰としての苦しみや痛みの
ない、救いの道筋でした。

 罪を犯した民を代表して、一人の指導者が民の代わりに命をかけて神の前に
出て行くという、預言の言葉が語られます(21節)。
18〜22節の部分に民の苦しみが描かれないのは、それまでのような罰、
懲らしめがこの方に集中するからです。
 命がけで神に近づき、民の受けるべき罰を担いきってくださる方の登場を、
エレミヤは預言しました。

 私たちは、この預言を見ながら主イエスを思い起こすことが出来ます。
思い起こすべきです。私たちは、私たちの受けるべき懲らしめと罰を
代わりに受けて、命をかけて十字架にかかってくださった主イエスを信じています。
「あなたのその罪も、過ちも、失敗も、すべて私が命をかけて担い、神の前に出た。
だから、今、もう、さっそく、あなたは救われた者として生き始めなさい。」と、
そのお方は語りかけてくださるのです。
 ですから、神の裁きや懲らしめにおびえることなく、主によって救われた
喜びと平安の中で生きています。

 教会では、「バチが当たる」などという言葉はふさわしくありません。
主イエスの十字架の大きさ、豊かさを軽んじることになるからです。
 神が、私たちを正しい道に導くために、時には訓練や試練をお与えになることは
あるでしょう。しかし、それはバチではありません。
 ですから、私たちは、どんな困難の中であっても、主の豊かな慈しみの中に
いることを疑わないのです。